歌川広重『江戸名所図絵』の内、「日暮里諏訪の台」に描かれた筑波山。
(右、下、拡大図)


(全図) 花と筑波山の景観を楽しむ客

右側の高い山が筑波山。左側は、加波山。加波山は筑波山に連なる山脈の山。
昔は江戸からも見えていた筑波山。富士の荘厳な美しさとはまた一味違った美しさを江戸の人達も楽しんでいたのでしょう。筑波山は日の光の具合で様々な色を山肌に映すといわれ紫峰とも呼ばれています。標高は876b、女峰(876b)、男峰(870b)の双峰の山で、決して高い山ではありませんが、関東平野孤高の山として人々に親しまれてきました。もちろん、郷土に住む私達にとっては誇りある山です。
筑波山は万葉集に二〇首以上歌われ、また、「常陸風土記」の中では歌垣(かがい)のことが書かれています。(万葉集、常陸風土記は共に8世紀に成立、歌垣のことは万葉集にも詠まれている)。歌垣とは、春と秋の二回、近隣の男女が筑波山中に集まり、歌をうたい酒を飲み、夜通し楽しんだ行事でした。この日ばかりは気の合った男女が朝まで一緒にすごすことが出来ました。歌垣は歌を競う「歌闘い」(うたかがい)のこととも考えられ、筑波近隣の様々な所で行われていました。筑波山は古代から信仰の山でもありましたが、このように人々が集い楽しむ山でもあったのです。
10世紀中頃には、平将門が筑波山のふところともいえる今の茨城の地で反乱を起こしています。南北朝時代、筑波山のふもとにあった小田城では、難破して霞ケ浦まで流されて来た南朝方の北畠親房が北朝方に攻められながら小田城の陣中で有名な「神皇正統記」を書きました。江戸時代には、江戸城の鬼門の方角に筑波山が当たったため、徳川家康が筑波山に知足院中禅寺を寄進して建立、徳川家の祈願所としました。幕末には、水戸藩の攘夷派、天狗党が筑波山に本拠を構えて、茨城の地を戦乱に巻き込みました。
筑波山はこのように常に歴史の表舞台に登場しています。
現代においては、関東を一望する名勝として、また、山頂に上がるケーブルカー駅にも近い筑波神社門前は温泉街としてにぎわっています。以前は、筑波鉄道線が土浦から筑波山のふもと近くまで走っていましたが、一九八七年三月をもって廃線になっています。今、東京から筑波山に向かう手段としては、JR東京駅始発の高速バス、筑波山線を利用するか、同じく東京駅始発の高速バス、つくばセンター行きに乗車、つくばセンターで筑波山行きに乗り換え(約2時間に1本)、もしくはJR常磐線土浦駅から筑波山行きに乗り換え(約1時間に1本)となります。(バスの問合せは、関東鉄道バス 029-852-5666へどうぞ)
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東京の過密解消のため計画されたのが研究学園都市構想だった。東京から大学と官公庁の研究機関を郊外に移し、研究学園都市を建設、都心に余裕を作り出す。この構想の下、政府により筑波地区に建設することが1963年に決定された。この筑波地区こそが現在のつくば市である。
一旦は地元も歓迎したが、この構想の都市案が公表されると地元民は買収される土地の広さに驚き、これでは農業が出来なくなると反対運動が起こった。問題の解決に茨城県が当たり、農地ははずして平地林を買収対象とするというように方針変更され問題は収拾される(このため研究学園都市は広く分散する形でつくられた)。
都市が完成し移転が始まったのは1972年で、それから1980年までに移転が完了した。この後、民間の研究所、工場進出も加速されていった。東京教育大学が移転し新しい大学として創設されたのが筑波大学で、1973年開学、翌年4月から新入生入学、77年、全学群が開設した。
政府は、筑波研究学園都市の建設事業が開始されてから20年目に当たる1985年(昭和60年)、国際技術博覧会(科学万博、つくばEXOPO
85)をつくばで開催、国の内外に研究学園都市の成果を知らせることも博覧会の目的とした。開催期間中、2000万人以上の人が訪れる盛況だった。
茨城県は当初、この科学万博を期に研究学園都市建設に関わった6町村が合併してつくば市が成立する予見を持っていたが、地元民の意見は賛否に揺れ、科学万博から2年後の1987年ようやく、大穂町、豊里町、谷田部町、桜村の4町村が合併、そして翌年、合併に筑波町が加わった。茎崎町は長年合併を見送っていたが、2002年11月につくば市に加わった。
現在、つくばと東京の秋葉原を結ぶ新常磐線(つくばエキスプレス)の建設が最終段階になってきた。当初予定の開業年2000年から6年遅れの開業となるが、鉄道への地元の期待は日々盛り上がっている。現在開業予定は、2005年8月24日になっている(2004年11月記述)。
つくばスクスプレス(TX)は、2005年8月24日開通しました。開通して3年が経過、四つあるつくば市内のTX各駅前はすさまじい変わり様です。マンション、ビルが林立、あっと言う間でした。特に、研究学園駅前の変化には大変なものがあります。2008年11月には、北関東最大というショッピングセンター「イーアスつくば」が駅前にオープ、さらに現在、つくば新市庁舎が建設中です(2009年2月10日記述)。
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つくば市ホームページ
つくばエクスプレスホームページ
イーアスつくば

つくばEXPO85ボスター 2004年7月に開催された
つくばエクスプレス、レールウォーク
筑波山といえば、ガマの油を思い浮かべる人は多いだろう。このガマの油を口上とともに売りだしたのが、筑波山の南麓の新治郡新治村永井に生まれた兵助、通称、永井兵助だった。彼は農家の出身だったが、一旗上げたいという強い願望から、江戸に出て商家の小僧をしたり、荷車引きをしていたが、出世の糸口も見つけられず、失意の内に国に帰ってきた。国には戻りにくかった彼は、自然と足を向けた筑波山で江戸では売られていないガマの油を見つけこれを売ることを決意、そして、筑波山の山頂にあるガマ石のところで七日間座禅を組んで宣伝文句を考えた。 こうやって出来たのが、
「…山中深くわけ入って捕えましたるこのガマを四面カガミばりの箱に入れるときは、ガマはおのが姿の鏡にうつるをみて驚き、タラーリ、タラーリと油汗をながす。これをすき取り、ヤナギの小枝にて三七、二十一日の間トローリトローリと煮つめましたるが、この陣中膏ガマの油、このガマの油の効能は、ヒビにアカギレ、シモヤケの妙薬、まだある、大の男が七転八倒する虫歯のいたみもピタリと止まる。まだある。出ジ、いぼジ、はしりジ、はれもの一切、そればかりか刃物の切れ味を止める。(兵助は一枚の白紙と刀を持ち出す)とりいだしたる夏なお寒き氷のやいば、一枚の紙が二枚、二枚の紙が四枚、四枚の紙が八枚、八枚の紙が十六枚、十六枚が三十と二枚、三十二枚が六十四枚、六十四枚が一束と二十八枚、これこの通り、ふうっと散らせぱ比良の暮雪は雪降りの型。これなる名刀も、ひとたぴこのガマの油をつけるときは、たちまち切れ味が止まる。おしてもひいても切れはせぬ。というてもナマクラになったのではない。この様にきれいにふきとる時は、もとの切れ味となる。さあて、お立ち合い、ガマの油の効能がわかったら遠慮は御無用、どんどん買って行きやれ」
という有名な口上である。ガマの油は飛ぶように売れた。江戸時代、1688年のことだった。

第16代永井兵助、初の女性ガマの油売り口上人
このガマの油というのは、センソという中国からの輸入品を加えたもの、センソというのは中国語で「ガマの素」という意味で、ガマを集めて押え、絞り出した汁に糊を加えて煎餅状にしたもの、これを日本では膏薬にまぜたり、飲み薬にしていた。膏薬は、切り傷に良く効き、血も止まり痛みもやわらいだ。大阪冬の陣、夏の陣(1614、1615年)では、筑波山の光誉上人が徳川方にあって陣中で戦勝祈願のお経を上げていたが、このガマの素の入った膏薬をケガ人に授けて良く効くと評判になった。そして、このおかげで、光誉上人はガマ上人と言われるようになった。このガマの油は光誉上人の頃からの筑波名物だと言い伝えられている。
科学的な分析によると、ガマの目の上には小さなコブのようなふくらみがあるが、ガマを棒でつついたりすると、このふくらみから白い汁を出す。この汁は、目に入るとしみたり、犬がなめると舌がしびれたりするが、血管を収縮させる作用や麻酔の作用があり、出血した血を止め、傷口の痛みを止める。また、強心作用があり、心臓にもいいという。このような効用がセンソには潜んでいた。兵助の口上には、人を集める上で話を面白くさせたウソも交じっているが、ガマの油の効用は本当だった。
ガマの油は現在、筑波山では化粧品として販売されている。