四国

高知の歴史(高知県)

近世・近代

 縄文人が展開していたところに、北九州から弥生人が移住してきた。高知県北部の長岡郡にある弥生初期の西見当遺跡が福岡の板付遺跡の系統を持つことから、水稲耕作が北九州から高知へと伝わったと考えられている。両文化人は低湿地で接触、融合していったのだろうという。
 高知市内では、弥生中期の朝倉北城山遺跡が発見されている。高知の弥生中期の遺跡は、山腹の小渓谷にあることが多く、これは、用水路の設置が容易であるなどの理由からか水利により近い所で稲作を行ったものと見られているし、また、鉄製農具の伝来の遅れとも関係があると推測されている。弥生中期は山腹の小谷沿いに集落が形成され、また、後期になると初期のように低湿地に移ったようだ。

 高知県の長い弓なりの太平洋岸のほぼ中央に位置している。太平洋からたてに切れ込んだ瀬戸湾があり、瀬戸湾に注ぐ鏡川の両岸に町が開けている。町の北部には高さ300〜400㍍の連山が、南部にも同程度の高さの連山があり南北山地の間にあって鏡川が流れる中央低地に市街地は広がっている。気候は年平均気温15.5度で、温暖な表日本式気候帯に属している。高知は豊かな高知平野にあって天然の良港瀬戸湾を持って発展していった。太平洋を臨んで立つ龍馬像のある桂浜は瀬戸湾入口に位置している。

 

 元親の死後家督を継いだ長宗我部盛親は関ヶ原の戦いにおいて西軍に見方したため改易され、土佐には大内一豊が封じられた。一豊は高知城とその城下町を建設、ここが現在の高知市の中心部になっている。土佐藩は明治にいたるまで山内氏の支配が続いた。江戸時代には、農兵である一領具足といわれた長宗我部氏の元家来(郷士、ごうし)と、山内氏の家来(上士、じょうし)の武士階級における上下関係が幕末まで続いた。
 長宗我部の家来には当初山内に反抗するものもいた。長宗我部が改易されての浦戸城引き渡しの際には浦戸一揆がおこり、一領具足の抵抗があった。郷士は決して政治中枢に入れられることはなかった。幕末に活躍した坂本龍馬は郷士だった。
 郷士とは、山内入部後に帰農していたもの(一領具足)を士分に取り立てたもの。幕末までに幾度か士分登用の機会があった。例えば、1644年野中兼山(殖産興業に実績をあげた)が登用した百人衆は一領具足の家系のものを条件に在郷のまま士の身分を与えた。この後も郷士身分が認められる機会があったが、次第に一領具足以外の家系のものが獲得することがおこるようになり、郷士株の売買、譲渡まで認められるようになった。富商、富農が郷士となることがおこった。
 もともと、郷士は城下でなく在郷の武士だったのだが、しだいに城下町やその近辺に住居を移すものが多くなっていった。
 豪商、才谷屋の当主は1770年郷士株を得て、坂本氏を名乗った。その子孫が坂本龍馬である。また、三菱の創業者、岩崎弥太郎の家は、郷士の株を売って職分・領地をなくした地下浪人といわれる身分だった。



参考文献 「高知市史 上巻」(高知市史編纂委員会、昭和33年)
       「高知県の歴史散歩」(高知県高校教育研究会歴史部会、1989年、山川出版社)

古墳時代

縄文・弥生時代

 室町時代には、田村城(高知市の東となりの南国市)に、細川頼益が守護代として入った。守護代の支配は戦国大名のような一円支配ではなく、その支配地域はずっと小さなものだったと思われる。台頭していた地頭は、細川氏の被官人となり、国侍と呼ばれた。

 西日本には縄文時代の遺跡が少ないが、南四国は特別に少ない。高知県で貝塚は一カ所、宿毛遺跡(宿毛市、高知県西部)だけで発見されている。高知市の瀬戸湾は潮の干満が大きく遠浅で干潟ができやすく、縄文時代に住居として適していた地域であるにもかかわらず遺跡は見つかっていない。高知市の縄文遺跡は小さなものに限られ、しかもそれらは散逸したのだろうと推測されている(長宗我部地検帳にカイカラツカという小字が見られることなどから)。弥生時代の貝塚は数カ所が高知市内で発見されている。

 戦国時代には、高知市内では、森、国沢、大黒などの諸氏が勢力があったが、16世紀後半になると、長宗我部元親が土佐を統一(1575年)、その後、長宗我部は四国全域も統一した(1585年)。この間、長宗我部氏は大高坂城に、さらに浦戸城(いずれも高知市内)に本拠を移している。
 しかし、豊臣秀吉から受けた伊予、讃岐返納の命令に従わなかったため、秀吉に10万の大軍を差し向けられると敗退し、結局土佐一国を安堵されることで和解した(1585年)。上方と四国では経済力を背景とするその実力に歴然とした差があったといわれる。

中世時代

 源氏が没落した平治の乱(1159年)により、源頼朝の弟、希義が土佐へ流されるが、頼朝が挙兵すると(1180年)、平家方は希義を殺害した。このように土佐においては平家方が優勢だったが、頼朝の東国における勝利により、土佐でも源氏方が勢力を挽回するに至った。
 鎌倉時代に入って、守護、地頭の勢力が実力をつけていった。香宗我部、長宗我部、大高坂、大黒氏らが台頭した。
 南北朝時代には、大高坂城(おおだかさじょう、公家方の大高坂氏の城、高知市)の攻防が激しかった。結局は、長宗我部などの武家方優勢となった。足利尊氏の命により讃岐・阿波に本拠をおきながら、土佐の戦に出向いた細川顕氏の力が大きかった。

 ヤマト朝廷の権力伸張とともに各地に作られた前方後円墳は、土佐には一基も発見されていない。古墳文化前期は全く土佐から欠落している。鉄器の普及が遅れたのも前方後円墳が作られなかった一つの原因だという。土佐で見られる古墳は円墳である。高知市北部山麓地帯には多くの古墳が存在しており、特に秦泉寺地区に集中している。これらの古墳はヤマト朝廷に服属していた国造、県主などの豪族達のものだった。土佐の国造については、成務天皇(2世紀)のころ子立足尼(ひじのすくね)が国造に任命されたと記録に出てくる。このころの土佐の歴史は記録にあらわれていない。ヤマト王権のある近畿地方から離れ重要な地域ではなかった。
 高知県北部の香美郡には物部の地名があり、物部氏の入部が考えられるが、一方これに対抗するように、蘇我氏も香美郡、長岡郡(いずれも高知県北部)に入部、宗我部(=蘇我部でないかという)の氏名を残したという。