近畿
神戸の歴史(兵庫県)
神戸は、神功皇后の頃から海上交通の要所にあり、港として名高く、務古の水門(むこのみなと、武庫とも)と言われていた。三韓(古代朝鮮)の使節はすべてここに入っていた。地名は神功皇后ゆかりの生田神社の神戸(かんべ、神社の経済基盤をささえた民のこと)に由来。九世紀初めになると、武庫より西の大輪田泊が主要港となる。神戸の属す津の国と呼ばれた国は、難波津の官吏が長官を摂(かね)たので摂津と名が付いた。平安時代末には、宋との貿易に着眼した平清盛が大輪田泊を眼下に一望する地に福原を造営している。福原は、現在の神戸市兵庫区にあたり、前に海、後ろに山があり、西南には一の谷の天然の関門を控えて要害の地であった。清盛は港の安全のため、良い泊り場を作ろうと港内西部に経の島(後の兵庫島)造築に着手している。この清盛による福原造営も一時的なものにとどまったが、鎌倉時代に入ると、東大寺の僧、重源が後を受けて大輪田の修築を、朝廷の許可を得て続けた。東大寺と大輪田の関係は以後も続き、その後も東大寺が港の修理を行っている。東大寺は、周防にある寺領地からの租米を運ぶのに大輪田の港が重要であったし、朝廷、幕府も西国からの租米の運搬に大輪田は欠かせなかった。この時代に初めて兵庫津という地名が現れている。
(以下、兵庫の港は、神戸市内の西側の港で兵庫島のあったあたり、神戸の港は神戸市内東側の港を指す。神戸と地名で述べる場合は兵庫の港の地域も含む)。
一三三三年、後醍醐天皇が配流地である隠岐より京都へ戻り、北条氏を滅ぼし建武の中興がなった。ところが、一三三六年に足利尊氏が鎌倉で反旗をひるがえして京都を陥れる。が、まもなく敗退、芦屋市、箕面市あたりで、楠木正成、新田義貞に敗れ、兵庫(神戸市)の地に退き、ここより海路により西に敗走した。ところが四ケ月あまりで尊氏は九州より東上、神戸に上陸し楠木正成、新田義貞と戦い今度は戦勝した(湊川の戦い、一三三六年、湊川=神戸市兵庫区)。神戸は交通の要地であったため、再三兵乱にみまわれている。
室町時代になると、将軍足利義満が勘合貿易により日明貿易を始めた。兵庫にはたびたび唐船が来航した。一旦途切れるが、将軍義教により日明貿易が再開されて、兵庫港は、改修され活気を呈した。義教の時代、兵庫は繁栄した。しかし、応仁の乱(一四六七〜一四七七年)により、京都は焦土と化し、大内氏が兵庫を占領、これ以降は、貿易船が兵庫に寄れなくなって、堺が日明貿易の港となり、繁栄は堺に移った。兵庫島は、応仁の乱の東西軍の上陸地点となり、壊滅的な打撃を被った。堺は唯一の将軍家の港として繁栄した(十五世紀後半)。応仁の乱は兵庫の港の関銭を干上がらせた。それを収入としていた東大寺、興福寺は痛手をこうむった。
天正(一五七三〜一五九一年)の頃には、正直屋宗興という者が兵庫入港の船舶から船役銭をとったり、諸座銭などを徴収していたことがわかっているが、豊臣秀吉が大阪を形成するとその影響を受け、また、慶長元年(一五九六年)には、震災を受け、「海嘯」(かいしょう、津波のこと)にも見舞われ、兵庫は殆ど全滅した。堺に繁栄が移った十五世紀後半頃から江戸時代初期までは、兵庫衰退の時期だった。
江戸時代には、神戸は、摂津国尼崎藩、三田藩、播磨国明石藩の領域にわたっていた。
寛政(一七九〇年代)の頃、淡路の人である高田屋嘉兵衛が兵庫に来て回送業を始めた。嘉兵衛は幕府の政策もあって北海道開拓に力を入れて北海道の産物を兵庫にもたらし、幕府は大阪に箱館産物会所を、兵庫に箱館産物会所出張所を設置した。
幕末には、西欧諸外国の船舶が日本近海、港湾に現れ日本に開港を迫った。中でも、アメリカ総領事ハリスによる京都にごく近い兵庫の開港要求は朝廷に拒絶されていたが、伊井大老が開港する条約に調印してしまい、桜田の変がおこり攘夷論が台頭した。このような情勢の中、勝海舟は将軍の許しをえて、神戸に海軍操練所を建て、兵庫の二カ所に砲台を置いた。兵庫港は明治維新の直前、一八六八年一月一日開港されることになった。しかし、周辺に土地がなく外人居留地が広く作れなかったため、兵庫港に代わって神戸港が開港された。神戸港の貿易は順調に進展し明治中頃には、貿易量で横浜と並ぶまでになった。
近代においては、マッチ、ゴムなどの近代産業が盛んとなった。マッチは世界に輸出された。ゴムについては、ダンロップが神戸に工場を建設したことが、ゴム工業発展の元となっている。第二次世界大戦では、市街の大半を焼失したが、戦後の復興には目覚ましいものがあった。中でも皮革以外の化学製品で作った靴、ケミカルシューズの製造が神戸の特産品となって、国内ばかりでなく輸出品として外貨獲得に貢献した。
一八八九年神戸市となり、一九五六年政令指定都市に。一九九五年、一月十七日阪神淡路大震災。六四三三人の犠牲者を出した。 (文責 編集部)