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久留米の歴史(福岡県)

 福岡県南部に位置する福岡第三の都市。筑後平野の真ん中、筑後川中流域に位置する中核都市である。東に美しい耳納(みのう)連山を望む。平成十七年二月五日には、久留米市、田主丸町、北野町、城島町及び三潴町が合併し新「久留米市」が誕生する。

 縄文弥生時代から人が多く住む豊かな土地だった。当時の遺跡が多く発掘されている。そのうちの一つに、久留米市安武町で発見された縄文時代の落とし穴の遺跡がある。七八もの落とし穴が見つかり、これ程大規模なものは西日本では初めて。一つが幅1b、奥1.5b、深さ1bくらいの穴で動物の捕獲が目的だった。また、稲作を始めた弥生時代の遺跡としては、全国でも最大級の棟数の、米を貯蔵したと思われる高床式倉庫群、六〇基も発見されている。この地域に大きな権力者がいたことを推測させる。

 古墳時代に今の福岡県、熊本県地域を中心とする九州北部を支配していたのは、筑紫国造磐井(いわい)だった。磐井は、大和朝廷に反旗をひるがえし、大和の軍に滅ぼされた。彼の古墳が八女市にある岩戸山古墳とされ、古墳には石で作られた石人、石馬像が置かれているがすべてこわされていた。大和によって破壊されたものと推測されている。大和では古墳には焼物で作った埴輪を置いていたが、違う文化が北九州にはあったのだろうか。磐井の反乱は大和朝廷の進める朝鮮出兵に疲弊した九州民衆の反乱だったともいわれている。

 七世紀には、現在の久留米市合川町に筑後国府が設置された。耳納連山の一番西にある高良山には高良大社があり筑後国の平安を祈願し朝廷からも高い位を与えられていた。高良山には、約一三〇〇個の大石が総延長二五〇〇bに渡って並べられた神籠石(こうごいし)が残っているが誰が何のために建てたかは分かっていない(六世紀後半から七世紀初め頃に築かれたといわれている)。
 七一三年に筑後守となった道君首名(みちのきみのおびとな)は、貯水池を作ったりして農業生産の安定に尽力した。彼は北陸地方の豪族の出で、都で学んだほか新羅にも渡った経験があり、当時の最先端の技術を筑後にもたらした。

 鎌倉時代に久留米周辺を統治したのは草野氏で、耳納連山の古城山頂に竹井城を擁していた。城からは筑後川が一望でき、今もこの一帯は自然歩道が整備され絶好のハイキングコースになっている。草野氏は平氏と戦い、源氏から領地を安堵された。しかし、室町時代になると福岡は、南朝方の懐良親王(かねながしんのう)によって大宰府に置かれた征西府の支配下に一時入ったが、足利氏の室町幕府は、九州探題に今川了俊を置いて対抗させ、ついに征西府は消滅した。この間、草野氏は、一時懐良親王に付いていたが、後に今川方に付き、戦国時代まで家は存続した。
 一三五九年には筑後川の戦いがあった。南朝の懐良親王、菊地武光勢六万と少弐、大友勢四万がぶつかった。死傷者が多数でたすさまじい戦いだった。この時の死者を葬った塚のあとといわれる「五万騎塚」が宮ノ陣町にある。この宮ノ陣町の名の由来は、懐良親王が陣をしいたことからその名がついたといわれている。宮ノ陣神社には、懐良親王が植えたという将軍梅が今に伝わっている(現在は孫木)。また、この戦いの時、菊地武光が自分の刀を洗ったところから大刀洗(三井郡)の地名がついたという。この筑後川の戦いの後、征西府ができ、しばらく南朝方が優勢だった。

 この後、戦国時代になると、大内氏、大友氏、竜造寺氏、島津氏が筑後の覇権を争った。十六世紀末頃になると、島津氏がほぼ九州を平定しそうな情勢となったが、この時、一五八七年に豊臣秀吉が二五万人の大軍を率いて九州に出陣、秀吉軍はわずか二カ月あまりで島津領にせまり、島津氏は降伏した。島津領にせまる途中、秀吉は高良山吉見岳に本陣をしいたが、ここで筑後の領主たちは秀吉に謁見している。

 江戸時代に入ると、久留米城は当初、柳川藩の支城として藩主田中吉政の子息が入っていたが、吉政を継いだ忠政に嗣子がなく田中氏は改易となった。久留米には有馬豊氏が藩主として国入りした。この時、柳川は立花宗茂が藩主となった。江戸時代の久留米は有馬氏二一万石の城下町として栄えた。有馬氏は十一代、二五〇年間に渡って筑後地方を治めた。

 明治維新を迎え、一八六九年(明治二年)になると、有馬頼咸(よりしげ)は版籍を奉還して久留米藩知事となって明治新政の一地方長官の立場となった。幕府に仕えていた士族たちは役人、軍人、警官等になったが、なれないものもいた。これらの旧士族の生活のため、有馬頼咸や政府からの援助もあって全士族が社員となった赤松社が創設され、筑後の特産品である久留米がすり、藍胎漆器、和傘などの事業を行った。
 一八七一年(明治四年)には久留米藩は一時、三潴県に編入され、五年後には、福岡県に編入された。久留米市が誕生したのは、一八八八年(明治二二年)のことだった。
 明治三〇年には、福岡から陸軍歩兵第四八連隊が久留米市国分に移転して来た。同連隊は、日露戦争に活躍、一九〇六年(明治三九年)に帰還すると久留米の町は戦勝ムードにわきかえった。この後、久留米には、第十八師団がおかれたが、久留米はいよいよ軍都の性格を色濃くし商工業も発展していった。第一次世界大戦では、第十八師団が中国の青島攻略に参加、大正三年久留米に凱旋した。

 近代の久留米の産業として特筆されるのは、足袋である。久留米には、「つちやたび」と「しまやたび」の二つが足袋製造業者としてしのぎを削った。大正時代になると、第一次大戦の捕虜として久留米にいたドイツ人がゴム製法を伝授してゴムを足袋底にはりつけたゴム底地下足袋、ゴム長靴などを製造するようになった。後、しまやたび(日本たび株式会社)は、自動車タイヤの製造にも乗り出し、昭和六年にブリヂストンタイヤを生み出した。ブリヂストンは昭和十二年には本社を久留米から東京に移している。つちやたび(つちやたび合名会社)は後、月星化成となった。 (文責 編集部)



近代久留米の黎明を伝える吉田シヅ子著「久留米回想記」。
明治〜大正時代の久留米の町のようすが生き生きと語られています。

関連サイト
久留米市ホームページ


九州

福岡の歴史(福岡県)
久留米の歴史(福岡県)
北九州の歴史(福岡県)

福岡のうまいもの

北九州の歴史(福岡県)

 北九州は関門海峡をはさんで本州との接点であり、また、大陸への玄関口でもあって地理的に重要な拠点であり続けた。
 北九州古代史で特筆されるのは、遠賀川式土器の発見である。発見された昭和六年当時には、福岡地方では、無文土器しか知られていなかったが、貝描重弧文という柄の入った有文土器だった(発見者=名和羊一郎)。従来の弥生土器とは別のものだというので、中山平次郎が注目した。この土器は、近畿地方にまで伝播した基本的な前期弥生土器であることが分かり「遠賀川式土器」の名称で考古学界に認知された。さらに、飯塚地方の弥生遺跡である東菰田遺跡から出土した土器(東菰田式)と同型の土器が、福岡の板付遺跡で縄文晩期系土器と共存していることが確認され、これにより、弥生文化が北部九州から列島に広がっていったことが分かった。
 紀元1〜3世紀の頃は北九州、豊前地方では、福岡・佐賀を中心に邪馬台国を盟主とした国家群があったことが知れているが、その周辺地域として小さな国々が存在していただろう。

 古墳時代には、豊前地方に九州で最初期の前方後円墳が造られている。それは、石塚山古墳(苅田町南原、苅田町役場横)と赤塚古墳(宇佐市高森)である。畿内型古墳である前方後円墳がこの地域に最初に造られたのは、畿内文化がここから九州に入ってきたからだろうと考えられる。六世紀末から七世紀にわたる古墳時代末期には、綾塚古墳、橘塚古墳(いずれも京都郡勝山町)、穴ケ葉山古墳(築上郡大平村)のように全国的にも注目されるような巨石古墳が造られている。この地域には、大化改新以前に巨石古墳が出現しており、前方後円墳を造った県主層の上に、宇佐神を奉じた宇佐国造や豊直(とよのあたい)のような国造クラスの豪族がいたと推測される。この巨石古墳は、神籠石(こうごいし)式山城の構築法と共通点があるという。六世紀前半に反乱を起こした磐井は、生前から造営していた自分の古墳、岩戸山古墳に石人石馬を置き九州の独特な文化的一面を示したが、ヤマト朝廷に鎮圧されると石人石馬は急速に姿を消した。豊前地方にはもともと石人石馬の文化は及んでおらず、磐井の勢力圏とは異なり親畿内・朝鮮的だった。
 神籠石は、豊前(馬ケ岳、御所ケ谷神籠石)、筑前、肥前、周防に10カ所確認されているが、記録もなく神域を示すものかとも言われ謎とされていたが、これらは大野城のようにな記録に残っている朝鮮式山城築城以前の防衛施設であったのではないかといわれている。

 奈良・平安時代には、新羅の攻勢により朝鮮半島の任那に次いで百済が滅亡、また、ヤマト朝廷が挽回のため朝鮮に派遣した大軍も白村江で敗北(六六三年)、これにより今の福岡市にあった筑紫官家は太宰府に移される。この当時、北九州には国の役所である豊前国衙が京都郡豊津町惣社のあたりにあったと考えられている。住民には、秦氏や、その配下にあった勝(すぐり=村主)氏など渡来韓人が多く、朝鮮系、畿内系の地域文化が育っていた。香春岳では銅の採掘が行われており、朝鮮系の技術が導入されていた。香春岳に祭られた新羅神である香春神には最澄も渡唐に際して航海の無事を祈るため詣でている。宇佐八幡の形成には、渡来氏族の協力があり、宇佐地方にはいち早く畿内の影響を受けた寺院も建設されている。しかし、この文化特性は八世紀中頃には、大宰府系文化の浸透によって転換期を向かえた。七四〇年には、大宰帥(だざいのそつ)だった藤原広嗣が中央に対して反乱を起こし、現在の北九州市小倉北区の板櫃川で官軍と戦い鎮圧された。
 平安時代には、流行した山岳仏教に修験道が結びついた霊山が信仰の対象として現れたが、豊前地方の英彦山(田川郡添田町)と救菩提山(豊前市)は有名である。

 鎌倉時代になると、九州に地頭職を得た東国御家人が北九州に下ってきた。現在の門司区、小倉北区の紫川東側に入ったのが下総親房、後、子孫は門司氏を称した。宇都宮氏の一族は豊前、山鹿(後、山鹿氏、麻生氏)に、武藤氏(後、少弐氏)の一族、吉田氏が小倉南区に入ってきた。これに対し従来から地元にいた武士たちは、鎌倉御家人ではなかったが、元寇を機に御家人化していった。鎌倉幕府が滅亡すると、帆柱山に立てこもった規矩高政、豊前守護だった糸田貞義らは北条氏と共に滅んだ。

 一三三五年、敗退した足利尊氏が北九州まで逃れて来て芦屋に上陸、少弐頼尚に迎えられ宗像氏範の館に身を寄せる。一千の尊氏軍は多々良ガ浜(福岡市東区、多々良川河口付近)で六万の菊地軍を敗る。窮地を脱した尊氏は九州から上洛し、一三三八年室町幕府を開いた。その後も北九州では、北朝方の門司氏、麻生氏らが、南朝方の菊地氏らと勢力争いを繰り返した。一三六三年には、北朝方を支援する形で周防の大内氏が豊前に兵を出し、この時初めて豊前に足掛かりを作った。大内氏も九州の勢力争いに加わり、十五世紀末には、大内氏は周防、長門から豊前、筑前、筑後までその勢力圏を広げた。一五五一年に大内氏が滅ぶと、代わって毛利氏がその勢力圏を受け継いだが、豊前は、豊後から進出して来た大友宗麟に奪われる。しかし、大友氏も島津氏に日向耳川の戦いで敗れて以降勢力をなくした。島津は、九州西部に勢力を持っていた龍造寺隆信も敗り九州制圧寸前だったが、豊臣秀吉の九州征伐により、島津は薩摩へ退いた。

 豊臣政権下では、小倉には、秀吉の側近だった毛利勝信が入り企救、田川の六万石が与えられた。それ以外の豊前は黒田孝高に与えられ、中津に入部した。関が原の戦いの後は、毛利が石田三成側に付いたため改易され、黒田氏は筑前に転封、五二万石の福岡藩大大名となった。三九万石の豊前には丹後宮津から細川忠興が入った。一六三二年には細川氏は熊本藩(加藤氏は改易)に転封となり、播磨明石藩の小笠原氏が細川氏に代わって小倉藩藩主となった。以降、小笠原氏が十代続き、明治維新を迎える。
 細川忠興は、当初中津城に入ったが、海陸の要地である小倉に目を付け本城を小倉に移した。従来の小倉城は城下町も含め小さなものだったので、忠興は五層白亜の天守閣、二の丸、三の丸を建てるとともに社寺、漁師部落を移転させ市街地を拡張、碁盤目割りの整然とした城下町を築いた。
 小笠原氏は三代将軍家光の時、移封となったが、これは、外様大名だけだった九州に譜代の小笠原家を九州要衝の地である小倉に配し九州の抑えとしたものだった。

 幕末、幕府は第二次長州征伐を将軍家茂の死去を理由に取りやめたが、小倉藩は前線に取り残され、九州に上陸していた長州軍に小倉を侵攻され、小倉藩は城に火を放ち城地をすてて田川郡香春に退いた。結果、小倉は長州藩に移譲され、小笠原氏は豊津に移って明治維新を迎えた。

 明治政府は一八七一年(明治四年)、豊前を小倉県とした。次いで、一八七六年(明治九年)小倉県は福岡県に合併された。小倉は、明治政府下、陸軍の拠点となり軍都の性格を強めた。文豪森鴎外も一八九九年から師団軍医部長として三年間滞在した。 (文責 編集部)

26ページにわたって北九州の戦前の映画館について紹介されています。能間義弘著「福岡博多映画百年」。

関連サイト
北九州市ホームページ

福岡の歴史(福岡県)

 九州北部に位置する福岡は博多湾沿岸に開けた、早くから歴史の表舞台に登場する街である。博多湾前面には玄界灘がひらけ、その海は福岡を壱岐・対馬、南朝鮮、中国へとつなげている。このことは福岡に古代の頃から歴史的に重要な意味をあたえている。
 古代の福岡が記録された最も古いものは、一世紀の中国後漢時代に書かれた「前漢書地理誌」にみえる記述で、福岡平野の丘陵地帯に農耕を営む部落が相当数あったことを推測させる。その中心が奴国(なこく)であった。さらに、「後漢書東夷伝」に、この奴国に金印を与えた記述があるが、その金印(「漢委奴国王」)は偶然にも、一七八四年(天明四年)に博多湾口にある志賀島で農民、甚兵衛が田の溝の修理中に発見した。
 三世紀の終わりころには、やはり中国の「魏志倭人伝」に邪馬台国についての記述があり、北九州の様子が伝えられている。

 大和朝廷は筑紫国の首長としてに筑紫国造(ちくしのくにのみやつこ)を置いた。福岡市の香椎宮、住吉神社等における神功皇后にまつわる伝説は、大和朝廷が朝鮮や中国と関わるうえで福岡が北九州における重要な土地であったことを示している。六世紀に入って筑紫国造だった磐井が反乱をおこしたが、大和朝廷は反乱鎮圧後、役所や倉庫からなる総督府である筑紫官家(つくしのみやけ、場所=福岡市南区三宅)を充実させた。この頃には福岡は、那の津と呼ばれていた。七世紀になると、小野妹子らの第一回遣隋使が那の津から出発していった(六〇七年)。また、六六一年には、前年に滅亡した百済復興のため三万もの大軍を那の津から朝鮮に送ったが、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗北をきっしている。この敗北の結果、筑紫官家は大宰府に移され、海辺近くの施設としては筑紫館(つくしのたち)が建てられた。筑紫館は後の鴻臚館(こうろかん)で、現在の福岡市平和台にあった。那の津と呼ばれていた福岡が博多と言われ始めたのもこの頃のことだった。文献に初めて見られるのは、博多大津としてで、「続日本紀」の七五九年の条に見える。博多大津とは、博多湾全域を指した言葉だった。

 大宰府は朝鮮からの攻撃に備えて、水城や朝鮮山城を周囲にはりめぐらしたが、実際に攻めてきたのは朝鮮ではなかった。九四〇年四国の伊予に本拠を持つ海賊藤原純友が官軍に追われて突然博多、大宰府を襲撃した。官軍はこれを伊予に敗走させたが、多くの建物は焼失してしまった。一〇一九年には、満州の女真族が船五〇艘あまりで朝鮮東岸、対馬、壱岐と侵略してついに博多にいたり、博多の警固所を襲うが、官軍によって敗退させられ、能古島に留まるものの時化のため湾外へ退却するという事件がおこった(刀伊の入寇)。

 十世紀になると朝鮮・中国との貿易が私貿易化し、官による貿易の管理が崩れていった。当初、鴻臚館で大宰府の役人が貿易品を民間より先に買い取っていたが、次第にその制度が崩れて、役人自身が私腹を肥やすため横流しをするようになり、役人や寺社による私貿易が盛んになっていった。十一世紀になると、筥崎八幡宮は私貿易に血道をあげ神官たちは富豪となる。筥崎宮の門前には、宋人たちの大唐街が出来た。宋商人の中には、日本人と結婚し帰化するものもいた。この結果、官貿易の港だった荒津(現在の西公園下)はさびれ、博多津(現在の那珂川東側)がにぎわうこととなった。この経緯については、十二世紀の時の権力者平清盛による博多津の荘園化も大きかった。櫛田神社を勧進したのも平清盛だった。清盛は博多津にあった入り江、袖の湊(旧大丸デパートあたり)を良港に作りかえ、中国船の入港を専らここに集中させて富を増やしていった。この後、この一帯が博多の中心としてにぎわっていく。
 一一八五年平家が壇ノ浦の戦いに敗れると、袖の湊周辺にいた宋商人の多くは博多を捨て、帰国して行く。その百堂といった空いた土地に源頼朝の許しをえて日本で初めての禅寺、聖福寺を建てたのが栄西である。栄西は我が国の茶祖としても知られ、最初に茶の種が蒔かれたのは聖福寺境内や脊振山だった。

 一二七四年、対馬・壱岐を急襲した元軍(蒙古軍)四万人あまりが九百艘の船で博多に姿を現した。元軍は室見川の河口付近から百道原の間に上陸、祖原山を占領してさらに赤坂まで進撃、箱崎に上陸した元軍本隊は箱崎八幡宮を焼き、日本軍を敗走させた。日本軍は博多を棄てて水城まで退却した。しかし、この翌日には、元軍は博多湾から完全に引き上げていった(文永の役)。文永の役後元が送ってきた使者を日本が斬首すると、さらに七年後の一二八一年再び元軍が博多を来襲したが、日本が築いていた石塁(石築地・石垣)に阻まれ上陸出来ず、石塁がなかった志賀島に上陸、そこで日本軍と激戦になった。先の文永の役で戦い方を知った日本軍は今度は元軍を退け上陸を阻んだ。元軍は一旦壱岐まで後退し遅れて来た主力の船隊と合流して再度博多に迫ったが、夜襲った台風のため大部分の船が一夜のうちに沈没して十数万の兵は溺死しした(弘安の役)。先の文永の役は蒙古は本当に日本を攻めるつもりはなくその力を誇示するのが目的で、目的を達した後退却したものと今では考えられている。弘安の役では神風が日本を救った。

 元寇という国難を乗り切ったものの鎌倉幕府は恩賞を充分に与えることが出来ず、御家人に不満を残す。また、御家人救済のため徳政令を出したりして社会を混乱させた。この時、鎌倉幕府は新田義貞、楠木正成、足利尊氏らに打ち破られ滅亡し、後醍醐天皇による建武の中興がなった。しかし、足利は新田や奥州の北畠に敗走させられ九州に至る。九州では天皇方の肥後の菊地武敏らが大軍をもって尊氏を多々良ガ浜(福岡市東区、多々良川河口付近)に迎え撃つが、一千余りという尊氏勢に敗北を喫してしまう。この合戦で勢いづいた尊氏は、九州に大号令を発して東上、湊川で新田と楠木を破り一三三八年京都に室町幕府を開いた。これ以降の五〇年間は南北朝時代となり、九州でも南北朝の争いが続いた。南朝方が懐良親王、菊地氏ら、北朝方が九州探題(一色範氏、今川了俊など)側であった。一三九二年、第三代将軍足利義満の時、南北朝の講和がなった。

 十五世紀に入ると、義満が明と始めた勘合貿易により博多は栄えた。博多商人といわれる人達も出てきている。応仁の乱(一四六七〜七七年)後、京都から引き上げた大内政弘がそれまで占領していた少弐、大友氏から博多を奪うと、大内氏の政治力を背景に博多は一層栄えた。しかし、福岡の十五、十六世紀は戦国時代で少弐氏、龍造寺氏、大友氏、大内氏、毛利氏らが激しく争った。一五六九年には毛利、大友の両軍が多々良浜、博多を戦場として戦い博多の街の大半が焼失した。一五八六年には、大友、龍造寺を退けてほぼ九州を手中にした島津義久が福岡の立花城を攻めている時、豊臣秀吉が九州征伐の軍を差し向けてきたため急遽撤退、その際、博多の街を焼き払い、既に荒廃していた博多を焼野ヶ原としてしまった。この博多の再興は、島津を軍門に下した帰り、福岡の箱崎に逗留中、博多商人の神屋宗湛ら博多衆の懇願により秀吉によって計画が決定され太閤町割などが盛り込まれることになった。秀吉は博多には、名島城に小早川隆景(筑前五二万石)を置き九州の押えとした。

 江戸幕府が開かれると、福岡には黒田長政が入部した。それまでの名島城は海に囲まれ地理的広がりがないため敬遠され、以前鴻臚館もあった現在の平和台の地(警固村福崎)に福岡城が建てられた。
 明治維新まで福岡藩は十二代に渡って続いた。最後の十二代藩主長知(ながとも)は明治二年版籍奉還により福岡藩知事となったが、財政窮乏から太政官札の贋札を藩が発行、このことが明治政府に露呈し知事は罷免閉門され首謀者は斬罪となった。贋札を作っていたのは福岡藩ばかりではなかったが、新政府に人脈のない福岡藩がスケープゴートにされた。この後、一時有栖川宮が知事を務めた。明治九年には、小倉県、三潴県を吸収して現在の福岡県となる。福岡市は明治二二年(一八八九年)に誕生した。福岡市成立の翌年には市議会において博多市と改称すべきとの建議が出されたが一票さで否決された。鉄道駅名は博多駅とされた。明治中頃はまだ、福岡と博多の融和がなっておらず、博多市として独立しようという運動もあった。

 明治四三年(一九一〇年)、産業博覧会で各県持ち回りの九州沖縄八県連合共進会(第十三回)が福岡で行われた。当時、福岡市の人口が八万人のところに九一万人の観客が訪れた。同会に合わせて市内電車が開業、博多駅も新築落成した。この共進会以降福岡は長崎、熊本をしのぎ九州第一の都市として発展していく。 (文責 編集部)

 

明治の福岡に突如現れた活動の衝撃。九州一の歓楽街・東中洲を中心に、日本における映画と映画館のエピソードを丹念にひろった力作。写真も186点収録。明治から昭和までの100年間をつづる能間義弘著「福岡博多映画百年」。

関連サイト
福岡市ホームページ