東北
郡山は福島県の中央部の、郡山盆地に位置する。郡山市西部は国内四番目の大きさの猪苗代湖に接する。水利の便が悪く明治初年には人口わずか五千人にみたなかった郡山村だったが、1882年(明治15年)、この猪苗代湖からの安積疎水(あさかそすい)が開通したことにより近代都市としての発展が可能になった。猪苗代湖から用水を導いた安積疎水により米の生産は大正末ころには三倍になり、豊かな水と疎水による水力発電が行われ、絹糸業、化学工業の工場が相次いで進出、その結果、新興都市郡山が誕生した。
温泉の多い福島県にあることから、やはり大小数多くの温泉が存在しており、気候はおだやかな内陸型気候で盆地底にある福島や会津若松より夏は過ごしやすい。東北第二の河川、阿武隈川が市の南部から北部へかけて流れている。
郡山市内から旧石器時代の遺跡が八か所見つかっているが、熱海町に多く見つかっている。縄文時代の遺跡は市内に数多く見るられるが、五百川と阿武隈川の合流地点である日和田町の簗場遺跡では、多量の炭化したドングリが発見されている。近くには縄文後期の住居跡もあり、食糧として貯蔵されていたものと考えられる。東北の弥生式土器には縄文土器の影響がみられ、地文に縄文がついているが、他に付けられた文様で縄文のものと区別される。弥生時代の遺跡は市内各地に点在しており、中でも河川沿いに多い。
郡山市内は福島県の中で最も古墳の多い地域の一つで大槻町、田村町、蒲倉(かばのくら)には代表的な古墳群がある。福島県内で一番古い古墳は、会津若松市にある古墳時代前期末に属す大塚山古墳で、このことから福島県に古墳文化が入ってきたのは四世紀終わりころとみられる。郡山には数十の古墳が集まった群集墳があり、これらは、壮大な古墳が権力者により造営された古墳時代前・中期のものに比べ、古墳時代後期に属す地方豪族の小規模な家族墓である。
「あさか」の名は、ヤマト朝廷の地方長官である「阿尺国造」(あさかのくにのみやつこ)として五世紀ころに関する史料に記録されているのが最初。八世紀始めには「安積」の文字が使われるようになった。郡山は安積郡に属し、郡山の名称は郡衙があったところ、という意味を示しているという。
古代東北の歴史は蝦夷地征服の戦いの歴史だった。ヤマト朝廷からは、二世紀ころの日本武尊をはじめ数多くの鎮撫軍が送られた。中でも功績をあげたのが平安時代に送られた坂上田村麻呂だった。蝦夷を討ち胆沢城(岩手県奥州市)、志波城(同盛岡市)を築き、この周辺まで支配を広げた。安積郡など早くヤマト朝廷の版図に入っていた南の諸郡は物資や兵士の供給地となった。田村麻呂は東北地方に様々な伝承を残している。田村郡の地名は田村麻呂が陣をしいていたことから名付けられた。
1187年、奥州平泉の藤原氏は源頼朝によって滅ぼされた。その論功行賞により、安積郡は伊東氏の、安達郡は小野田(安達)氏の、田村郡は田村氏の所領となった。安積郡は伊東氏により経営開発された。伊東氏は本領である伊豆から伊豆権現、箱根権現などの神々を移し祭り、また、上伊豆島、下伊豆島、熱海など伊豆地方の地名を付けたりしている。執権北条氏の時代になると安積郡、石川郡、会津四郡が得宗領(北条氏領)となった。
戦国時代には、宮城の伊達氏と会津の蘆名氏が台頭、伊東氏は蘆名の勢力下に入っていた。この両者は、1588年の郡山合戦の翌年の磐梯山磨上原(すりあげはら)で最後の決戦を行い伊達が勝利し伊達氏の奥州支配が決定した。政宗は決戦の後、会津の黒川城を本拠とした。
1590年、豊臣秀吉は北条氏の小田原城攻めを開始した。伊達政宗も秀吉に参戦を命じられたが、出兵が帰趨が決したころと遅れ小田原落城後、伊達の所領の半分は秀吉により没収された(「奥州仕置」といわれる)。この時、政宗の所領の約半分が削られ安積、石川、白河、会津などの各郡は蒲生氏郷の所領となった。最終的に氏郷は九二万石の大名となった。
1598年、氏郷亡き蒲生家にお家騒動が起き、蒲生氏は一八万石の宇都宮に転封される。このあとに会津に入ったのが上杉謙信の子、上杉景勝だった。蒲生の旧領の他、佐渡、出羽も与えられ一二〇万石の大藩となった。しかし、秀吉の死後、関ケ原の戦いに際して石田三成と呼応し徳川家康に対抗したことから上杉氏は1601年、米沢三〇万石に移転減封された。
この後、会津には先の蒲生氏が、次いで、愛媛の松山から加藤嘉明が移封されてきたが、1643年に保科正之が新しい藩主として最上(山形県)から移ってきた。それまでは安積地方は会津の領主の支配下にあったが、保科氏が会津に入った折、安積、安達地方に新しい領主がおかれ、十万石の二本松藩が成立した。明治維新まで郡山は同藩に属した。二本松藩主は、織田氏の重臣で秀吉にも仕えた丹羽長秀の子、丹羽長重で関ケ原で豊臣方につき一時領地を失っていたが関ケ原から三年後に常陸国古渡(ふつと、茨城県稲敷市)一万石の藩主に取立てられていた。また、田村郡には1645年、三春藩が成立、常陸国宍戸(茨城県笠間市)から秋田氏が入った。三春藩も明治維新まで存続した。幕末期には東北各藩は朝敵となった会津藩に見方し奥羽越列藩同盟を設立して新政府軍と戊辰戦争となったが、次々と各藩は降伏、東北でも新政府体制が確立した。
明治政府の初めての開発事業は安積疎水だった。福島県の役人だった旧米沢藩士の中條政恒が尽力していた猪苗代湖からの潅漑による広大な安積平野の開発の事業が政府の目にとまり、国家事業となった。同事業は明治15年に完成し、手つかずの大草原だった安積平野を農地に変えていった(猪苗代湖からは水は西側には流れ出て阿賀野川には流れ込んでいたが東側には流れは無かった)。この農地開拓には、九州の久留米藩士をはじめ、鳥取、高知、松山、会津などの旧士族が移住、開墾を進めていった(郡山市には久留米の地名が残っている)。しかし、武士から農民に生活を激変させ、収穫も思うようにあげられず開拓者の生活は苦しかった。土地を抵当に借金をしたあげく土地を手放すことになり、結果小作農となる者が多かった。この開拓者の窮状を題材に小説『貧しき人々の群』(大正五年)を書いたのは中條政恒の孫、宮本百合子だった。
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