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小千谷の歴史(新潟県)

 小千谷(おぢや)は信濃川中流域谷口の大きな蛇行部に発達した段丘の町で、信濃川蛇行部の両岸段丘面を主要な生活の場としている。古くからの魚沼地方の中心地である。
 小千谷の名物は坂道である。標高200、300メートルの山地に囲まれ、民家は谷底や低い斜面に位置し、崩れ地の多い緩斜面にはほとんど頂上まで棚田ができ、溜池灌漑に依存して稲作が行われている。この貯水池が錦鯉養殖の場所となっていた。(信濃川段丘は大規模段丘であり、古くから学者に注目されていた。小千谷市域は最も複雑な谷口曲流蛇行部の段丘群上にある)。
 現在の中心市街は高田藩時代に銀山街道の宿場町として段丘面に町割されたものである。陣屋町であり、また越後上布、小千谷縮、青苧、蝋実などの集散地、縮市場でもあった。現在は、地方の中心都市として零細企業が多くを占める商工都市となっている。中心部は旧小千谷町で、町村合併が進むにつれ農業主体の地域が周辺に増えていった。

 気候は、冬期の湿った寒さと、重い多量の積雪量をもつ豪雪が特徴的である。分類上は裏日本式北陸気候区に入る。

原始時代では、縄文時代の遺跡が数多く発見されている。縄文中期の口縁に装飾の富んだ大きな把手を持つ馬高式土器、後期の三十稲場式土器は信濃川流域で発達した地方的土器である。後期になると地方的特色は消えより広い地域に普遍的な特色を持つような土器を造るようになった。遺跡も低い段丘にあり、その規模も大きくなっている。弥生時代になると遺跡は減少する。それは、弥生時代の特徴である農耕がこの地では困難であったからである。

古墳時代については、小千谷では古墳が全く発見されていない。しかし、群馬県寄りの信濃川支流域では古墳が多く発見されており、また、信濃川下流域の蒲原平野にも古墳があることが分かっているが、小千谷市域はこの当時、空白の時代だった。

五、六世紀になると大和朝廷は国造(くにのみやつこ)を任命して地方支配を行ったが、全国に支配を及ぼしていたわけでなく、この当時小千谷が国造の支配下に入っていたかどうかははっきりしない。

平安時代になると、国郡制下、魚沼郡の下に四郷があったが、その内の一つの千屋(ちや)郷が小千谷の起源となる所のようだ。千屋、つまり千谷がこの地の中心地であった。小千谷というのは、この千谷の近辺に起こり、いつの頃か信濃川の流れの変遷によって小千谷が交通の要衝になったものだろう。いつのまにか千谷は小千谷に含まれるようになった。平安時代、小千谷には千屋郡国衙領の庄園があった。庄園は郷に分かれ、郷の下に名(みょう)という小さな村落があり、村落は在家という複数の家族で構成された。名主を支配したのは侍で、国人、地侍、悪党といわれ、城館や屋敷を建てて年貢、公事、夫役を守らせ農村を支配していた。越後は、鎌倉時代になると、関東の内という扱いを受け東国的色彩を強め、魚沼地方への関東の影響は多きく、室町時代、関東の実権を掌握した関東管領となった上杉、上杉の家臣、長尾の支配力が浸透した。
 中世、農村では、女子による家内労働により越後上布が麻・苧を原料として作られるようになった。戦国期に木綿栽培が始まる以前の常用衣料だった。その越布は正倉院にも収められている。
 上杉謙信が戦国大名となると、軍事的必要性から道路、橋を建設した。この時整備したのが関東街道で、小千谷はその重要な宿駅だった。また、信濃川舟運の船着場として、中山道・高崎から分かれ、関東と越後を結ぶ三国街道の信濃川乗船地点として要衝の地になった。

 豊臣政権下、上杉景勝が会津一二〇万石に移ると、秀吉の家臣、堀秀治が越前北ノ庄から移り春日山の城主となった(四五万石、春日山は、現在の上越市に位置し上杉謙信の城下町だった)。しかし、江戸時代になると、領内の福嶋城(上越市直江津)に移っていた掘氏(福嶋藩)は家老のお家争いの責任を取らされて取り潰され、家康の子、松平忠輝が福嶋城主となる(一六一〇年、七五万石)。しかし、松平忠輝は大阪の両陣に功なく改易される(改易になった時は、福嶋城の南方八`bの高田城に移っていた)。これ以降、越後に大藩は立てられず、魚沼郡はさまざまに領主が変わった。一時は天領になったり複数の藩に分割されたりと定まらなかった。

 小千谷縮の始祖は、播州明石の人、明石次郎で、寛文年間(一六六一〜一六七二年)に小千谷に移ってきた。彼は越後白布に縞や花模様の精巧な縮を織り出し、人々に喜ばれ、小千谷縮はたちまち魚沼地方ばかりだけでなく、刈羽、三島、頸城地方にも広まった。縮の生産は、延宝年間(一六七三〜一六八〇年)までにはかなり盛んになった。小千谷には、原料の青苧の問屋、完成品の縮の問屋が成立し、元禄期には京、大阪、江戸の三都への販売が始まっている。当時の縮販売の急速な発展は都会の需要をもとにして初めて可能だった。
 
 幕末になると、小千谷は会津藩領になっていた。明治新政府が出来ると、会津藩追討の命を受けた仙台藩、庄内藩等の奥羽十四藩は、奥羽同盟を結んだ。一方、越後に迫った新政府軍は、小千谷まで進出、この小千谷の慈眼寺で、長岡藩家老河井継之助が新政府軍軍鑑岩村精一郎と会談、戦争を避けようとしたが会談は決裂し、長岡藩を初めとする北越六藩も同盟に加わり、奥羽越同盟となった。このため、小千谷が長岡藩と新政府軍の激戦の舞台となった。長岡藩はじりじり撤退をよなくされ、長岡城が陥落して越後の同盟軍の抵抗は終わった。
 小千谷は明治の廃藩置県に伴い、小千谷県の設置を望んだが、明治五年に柏崎県に組み込まれる。その後、明治六年、柏崎県は、新潟県に合併された。(文責 編集部)

追加情報追加情報林家こん平さんの故郷、チャーザー村は小千谷の隣町だった。

小千谷市 中條さん

 「千谷は現在の千谷よりも大きかった」という説を読んだ覚えがあります。たとえば隣に小国町があるのですが、この一部も含んでいたのでは?というのです。
 落語家の林家こん平さんが、「ちゃーざーむら」(千谷沢村)を故郷としていますが、ここは小国町の1地域です。また、小千谷市の中心を流れる茶郷川(ちゃごうがわ)は千谷郷川、または、千屋郷川であったといわれています。
 年寄りは小千谷市を「おぢやし」では無く、「おっぢゃし」と発音します。つまり、千谷(千屋)は「ちゃ」が正しい発音だったと言われています。千谷郷の川→ちゃごうがわでも、茶郷川は千谷を通っていません。


関連サイト
小千谷市ホームページ