関東

土浦の歴史(茨城県)

 土浦は茨城県南部にあり、琵琶湖に次いで二番目の大きさの湖、霞ヶ浦の西岸に位置している。霞ヶ浦に注いでいる桜川流域を中心に発展、北部の新治台地、南部の筑波稲敷台地まで市域を延ばしてきた(両台地ともに標高20数b)。霞ヶ浦に接して、水陸交通のかなめ、物資の集散地として栄えた。霞ヶ浦〜利根川〜江戸川の江戸と結ばれた水運、土浦を通った水戸街道、明治以降の、鉄道常磐線、筑波線の開通、さらに大正九年、隣町阿見町に設置された霞ヶ浦航空隊により軍都の性格も帯び茨城県南の中心都市として栄えた。
 気候は表日本型気候に属し内陸部にありながらも霞ヶ浦の影響で水戸よりも温暖であり、東京都の気候に近い。
 昭和36年には常磐線が電化して東京のベッドタウン化が始まり、工業生産都市としても整備されていった。

 縄文時代の貝塚遺跡が霞ヶ浦周辺には多く見られる。土浦にある上高津貝塚は広さ5fあり桜川流域で最も規模の大きな遺跡である。シジミ、ハマグリの貝殻、土器片、土偶、骨角器、タイの骨などが出土している。その他、縄文中・後期の沖宿貝塚、永国遺跡などが発掘されている。上高津貝塚には考古資料館が出来て「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」が遺跡地に作られている。
 霞ヶ浦周辺には弥生時代の遺跡は少ない。縄文時代、古墳時代にまたがる複合遺跡が多く、しかも弥生前期のものはなく中・後期のものに限られている。これは、海山の幸に恵まれて縄文的な生活が長く続いたせいであろうという。土浦市内でも縄文遺跡、古墳時代集落及びそれらの付近から弥生式土器が出土している。上高津貝塚からも出土している。永国遺跡は、縄文から古墳時代にかけての遺跡である。
 古墳は前方後方墳の古式古墳が霞ヶ浦周辺では主流で、前方後円墳も存在するが規模は小さい。このことは、豪族勢力が強大ではなく十分な労働力を集められなかったことなどを示しているという。また、初期古墳があることは、霞ヶ浦が大和朝廷の東進の主要なルートに当たったのではないかともされている。土浦には愛宕山古墳群(今泉)、天神山古墳群(常名)など小規模な古墳が数多く点在している。東国で大型古墳が作られたのは畿内地方より1世紀遅れた5世紀後半からで、東国最大の古墳は、群馬県太田市の天神山古墳、茨城県最大の古墳は、石岡市の舟塚山古墳である(いずれも前方後円墳)。
 奈良平安時代には、多珂、茨城、新治、筑波、那賀(那珂)、香島(鹿島)、信太、白壁(真壁)、久自(久慈)、河内、行方の11郡をおく常陸国がおかれた。土浦は茨城、新治、筑波、信太、河内の五郡にまたがる。各郡の郡衙は、茨城郡が石岡市茨城に、河内郡はつくば市金田に、信太郡は初め美浦町信太に後、旧江戸崎町君山におかれた。口分田をたがやす公民ならびに、貴族や寺社に与えられた田地をたがやす民衆は租庸調の税を収めたが、東大寺正倉院には信太郡大野郷、筑波郡栗原郷からの調布、法隆寺には土浦市域内を含むと思われる信太郡中家郷から納められた麻布が現存している。この他、兵役として防人となって九州の防備にあたることもあった。「万葉集」には常陸から出た防人の歌がのっている。
 鎌倉時代には、源頼朝に協力しなかった佐竹、志田などのの西常陸の豪族は討たれ、代わって鎌倉幕府の成立に貢献した小田氏に土浦、つくば地域の領土が与えられた。土浦の一部、桜川以南の信太は上杉領となった。これ以降、南北朝、室町、戦国時代まで小田氏がこの地域に勢力をはった。鎌倉時代には常陸では幕府執権だった北条氏一族の勢力が強大になったが幕府滅亡後衰退する。小田氏はつくば市小田に小田城を建て、ここを本拠地として、土浦城、木田余城などを支城としていた。
 南北朝時代には、南朝方についた小田は、関東管領上杉氏や佐竹氏と争う。この時期、小田城に入った北畠親房はここで「神皇正統記」を執筆している。小田氏は南北朝のころからしだいに勢をなくし、最後は小田城は落とされ木田余城に移っていたが、豊臣秀吉の全国統一により城を明渡した。
 土浦城は霞ヶ浦に流れ込む桜川のデルタ地帯にあり、土浦の中心部に位置している。土浦城のすぐ北側にある在地領主の武家屋敷地域だと思われる中城地区は、平安末〜室町期に若泉氏によって築かれた。土浦城の築城時期は15世紀半ばともされるが時期ははっきりしていない。築城者として若泉三郎の名が伝わっている。その後、小田の家臣である菅谷氏が16世紀初めに土浦城を奪い、以降菅谷氏の居城となった。また桜川の対岸に農漁業者の住む東崎が出来たが、ここは中城地区より遅く室町中期に成立したという(中城は土浦の商業の中心地として発展、水戸街道もここを通った。今も中城通り[中央1丁目]が残っており、見学できる江戸時代の蔵が数軒残っている。東崎は、現在も町名に残っている)。
 江戸時代には、最初、結城秀康が土浦城に入ったが福井へ転封、その後、松平氏、西尾氏などが入り、1669年、土浦数直が入る。政直が2代藩主となっていたが一時土屋氏は余所へ転封された。しかし、最終的に綱吉から吉宗までの将軍4代に渡って老中をつとめた土屋政直が1687年再度入城して土浦藩9万5千石の礎を築いた。土浦藩は、11代土屋挙直(しげなお)まで続き明治維新を迎えた。土屋政直は醤油醸造を国分勘兵衛(大国屋)に許し土浦が野田、銚子と並ぶ醤油産地となる基礎を築いた。国学、中でも田制、度量衡を研究した色川三中は、薬種、醤油醸造販売を行う富商でもあった。しかし、土浦の醤油醸造業は、近代経営に移行できず野田、銚子の発展についていくことが出来なかった。なお、国分勘兵衛の大国屋は現在、缶詰製造食品卸の国分(本社、東京)となっている。

関連サイト
土浦市ホームページ